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日本がいわゆる法治国家の体裁を整えたのは明治以降と考えられる。その明治時代に作られた民法が改正もされずに現在の人間社会に対応できるかというと、それは土台無理な話で、その都度、社会の要請にこたえる形で、改正を余儀なくされている。今日、さまざまな事件に関する判決や弁護士の言動に関して、とても理解に苦しむようなケースが多々見受けられる。もともと憲法の理念を現実の社会に具体化する形で、各法律は制定されているはずであるが、その憲法の理念の解釈に大きな個人的な解釈が加わって、実態として「法律のお遊び」のような体たらくになっている気もする。
よく一部の弁護士が依頼人(主に被告人)の利益を実現することが弁護士の使命であり、不利益になることを実現するものではない、と平気で広言する報道を見ますが、もし、本当にそのような理念で弁護士としての使命が全うされるとするなら、事実としての殺人者を善意の国民に仕立て上げて報酬やステータスを得る、資本主義史上まれにみる合法的守銭奴としかいいようがないでしょう。
私たちの大部分は、生涯を通じて、加害者として裁判を受けることは殆どありません。また、被害者として裁判に臨むようなことも、あまりないでしょう。そのためか、法律に関してはその表現方法が難解でもあるために、あえて勉強しようとも思いませんし、人並みに生活していれば無縁のものと思っているふしもあります。
しかし、社会の変遷にともなって、利害関係が従来の「お互い様」の生き方から、自分の利益だけを最優先させる生き方が主流となってきて、生活のさまざまなシーンで窮屈になってきました。その窮屈さに甘んじることもひとつの生き方ですが、法律は生活のなかでの弱者をできるかぎり救済するために日々進化し続けています。
当然の権利を主張するというよりも、社会に巣食おうとする「悪」の増殖を阻止していくためにも身近な法律については目を向けていったほうがいいのではないでしょうか。
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